in kyoto, in NewZealand, in Oz land,
be in adventures, is the life of mine at this moment
いくら眠くても、夜中に考え事が始まると眠気を忘れてぐるぐるぐるぐる考えてしまうし、
そういう時はきまって負の方向になる。
夜中に、書き物を始めて ゴリゴリ書き出すと(携帯のメモでも)時に面白い発想だとか出てくるのだけど、これは既に「書き出す」ほどに元気があるわけで、そうでは無いときは悲惨だ。
さらに、私の脳みそはなぜだか「感情」と「思考」を相容れさせてくれない。
それらは交代交代にやってくるか、
どちらかが強いとき(特に感情が勝つときには)私は操作できなくなるみたいなの
しかも、悲しいことに、一度感情が刺激を受けて顔に出すと、思考が「次にまたすぐ正の感情に切り替えたら、"可笑しい"からやめときな」と、不機嫌から離れられなくなる。
最近は、ようやく思考によって操作できるようにはなってきたけど、
感情を使うこと自体は、なくすことは難しい。
私は小学校の時分より、思考の方を多く使ってきたので、感情に慣れてない。
大事な人とか恋愛になると、とかく感情に傾いてしまうので、上手くいかない。
小さいときから、「抱きしめてもらった」り、「愛を感じた」ことが実感として少ない。
今なら、情報だとか納得にうなずくために、親の「愛」を思うけど、
家に帰って鍵を開けて電気を点けたり、0点だろうが100点だろうが無関心な母の様子や、
「自分で解決してきた」(つもり)であることが、人の手を借りることをものすごく遠ざけようとしている頭を作ってしまった。素直になれやしないし、むしろ救いの手が不快で、「助けたい」「幸せにしたい」を拒絶してしまう。
だって、私はひとりだっていずれ解決するし、「今でも幸せだから」
わざわざ押しつけるようなこと言わないで。と思ってしまう。
強くありたいと願ったり、頼らないやり方は自分を肯定することにもなったけれど、
どうしよもない悲しさだって、人を頼って癒す方法を知らない。
悲しくって抱きしめたくっても、「やめときなさい」によって頭がそれを拒絶する。
だって、一度、甘える安心をしってしまったら 私は一体どうなるの。
まだ、それは怖いし、私のことをよく知らない人に あたかも知っているかのように振る舞われるのは、不快というより不自然。
自分に自信がないのは、抱きしめてもらったり、愛情を受けた想いを、幼少に感じてきていなかったなのではないかなと思う
寒い夜に、母の帰りを待って ホットの缶コーヒーを母のため握りしめて駅で1時間くらい待ってた。
ようやく会えた母の反応を、私は覚えていない。
でも、西洋なら抱きしめてくれただろうけど、そういうことは全くなかった気がする。
これまでで、すぅごく幸せな誕生日ってのを、あんまり覚えていない。
私の脳みそは悲しいかな、ネガティブな思い出を多く覚えているのかも知れないけど。
もちろん、いいこともたくさん覚えているけど、愛とか家族だとかを感情で考えると、
なんとも虚しい感じがでてきてしまう。
親を好きだと感じ、親の愛情を感じ始めたのは、大学の後半以降な気がするよ、
私が能動的に、それを感じるために行動し始めたから。
そういう時はきまって負の方向になる。
夜中に、書き物を始めて ゴリゴリ書き出すと(携帯のメモでも)時に面白い発想だとか出てくるのだけど、これは既に「書き出す」ほどに元気があるわけで、そうでは無いときは悲惨だ。
さらに、私の脳みそはなぜだか「感情」と「思考」を相容れさせてくれない。
それらは交代交代にやってくるか、
どちらかが強いとき(特に感情が勝つときには)私は操作できなくなるみたいなの
しかも、悲しいことに、一度感情が刺激を受けて顔に出すと、思考が「次にまたすぐ正の感情に切り替えたら、"可笑しい"からやめときな」と、不機嫌から離れられなくなる。
最近は、ようやく思考によって操作できるようにはなってきたけど、
感情を使うこと自体は、なくすことは難しい。
私は小学校の時分より、思考の方を多く使ってきたので、感情に慣れてない。
大事な人とか恋愛になると、とかく感情に傾いてしまうので、上手くいかない。
小さいときから、「抱きしめてもらった」り、「愛を感じた」ことが実感として少ない。
今なら、情報だとか納得にうなずくために、親の「愛」を思うけど、
家に帰って鍵を開けて電気を点けたり、0点だろうが100点だろうが無関心な母の様子や、
「自分で解決してきた」(つもり)であることが、人の手を借りることをものすごく遠ざけようとしている頭を作ってしまった。素直になれやしないし、むしろ救いの手が不快で、「助けたい」「幸せにしたい」を拒絶してしまう。
だって、私はひとりだっていずれ解決するし、「今でも幸せだから」
わざわざ押しつけるようなこと言わないで。と思ってしまう。
強くありたいと願ったり、頼らないやり方は自分を肯定することにもなったけれど、
どうしよもない悲しさだって、人を頼って癒す方法を知らない。
悲しくって抱きしめたくっても、「やめときなさい」によって頭がそれを拒絶する。
だって、一度、甘える安心をしってしまったら 私は一体どうなるの。
まだ、それは怖いし、私のことをよく知らない人に あたかも知っているかのように振る舞われるのは、不快というより不自然。
自分に自信がないのは、抱きしめてもらったり、愛情を受けた想いを、幼少に感じてきていなかったなのではないかなと思う
寒い夜に、母の帰りを待って ホットの缶コーヒーを母のため握りしめて駅で1時間くらい待ってた。
ようやく会えた母の反応を、私は覚えていない。
でも、西洋なら抱きしめてくれただろうけど、そういうことは全くなかった気がする。
これまでで、すぅごく幸せな誕生日ってのを、あんまり覚えていない。
私の脳みそは悲しいかな、ネガティブな思い出を多く覚えているのかも知れないけど。
もちろん、いいこともたくさん覚えているけど、愛とか家族だとかを感情で考えると、
なんとも虚しい感じがでてきてしまう。
親を好きだと感じ、親の愛情を感じ始めたのは、大学の後半以降な気がするよ、
私が能動的に、それを感じるために行動し始めたから。
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